「梅原毅の授業:仏教」第九時限「鎌倉は新しい仏教の時代」をまとめてみた。
鎌倉時代は日本人の宗教的情熱がいちばん激しく燃えた時代で、日本的霊性が目覚めた時代と言える。いまの日本で栄えている仏教宗派のほとんどは、鎌倉時代に生まれた仏教宗派である。奈良時代には三論、法相、華厳が、平安時代には天台、真言があり、鎌倉時代には浄土教、日蓮の仏教、禅が興った。この授業は、浄土宗の祖師の法然、浄土真宗の祖師の新鸞について、禅と比較しながら語られている。
まずは浄土宗、浄土真宗の浄土教の起こりから。浄土教は鎌倉時代に一気に起こったのではなく、すでに平安時代に源信が浄土教を世に広めている。比叡山延暦寺の東塔、西塔、横川の3つの地域のうち最も恵まれない横川にいた源信が、「往生要集」を書いて念仏を普及させた。念仏と言っても源信の念仏は口で唱えるものではなく、観念の念仏であった。空海のいうように即身成仏するには大変な行をしなくてないけないから、普通の人間にはできないため、念仏によって浄土へ往生する以外には救いの道はないとする教えである。念仏とは、西の方に極楽浄土と言う楽しくてきれいな世界があり、そこには阿弥陀仏という仏さんがいて、その仏さんにお願いして極楽浄土へ往生させてもらうための方法である。
その後、鎌倉時代初期に法然が出てきた。彼は、子供の時に坊さんになり寺で修行を始めるが、15歳の時に父母を殺されてしまい、ショックを受けて乞食坊主となって諸国を放浪しようとしたところを師匠の叡空から学問してからでも遅くはないと言われて青龍寺で勉強をした。大変な秀才だったが、心に大きなショックを受けており、立身出世のための学問はしないでもっぱら悟りをひらく学問をした。そこで、源信の「往生要集」の念仏の解釈が彼により大きく変わり、口で「南無阿弥陀仏」ととなえることであるとした。彼は、観念で想像して極楽浄土を思い浮かべることなど普通の人にはできないし、できなければお寺に寄付すれば極楽浄土に行けると言ってもお金を持っている権力者しか寄付できないことになり、仏教の根本精神である平等精神に反すると考えた。そこで、いろいろと調べたところ、善導が書いた経典の中の「観経疏」に、念仏は想像の念仏ではなくて、口で「南無阿弥陀仏」と言えばよいと言っていることを見いだした。これにより、いままで極楽浄土に憧れを持ちながら自分は阿呆だからいけない、金がないからいけないと思っていた普通の人に希望を与えた。法然の教えの「凡夫往生」には、普通の人のなかに女人も入っており、さらに「悪人往生」つまり悪人ですら「南無阿弥陀仏」といえば往生できるとしたことで、短期間で国中に広がっていった。日蓮が、源信で日本人の1/3が、永観上人で1/3が、最後に法然で残りの1/3が浄土教の信者になったと言っているほど日本で盛んになった。このため昔からの天台、真言から批判が出て晩年四国に流罪となった。しかし田舎でも念仏の教えを説き、80歳で京都に呼び戻されて今の知恩院のあるところで亡くなった。
その法然にとても個性的な弟子がいて、それが新鸞であった。ほかの弟子ほど法然にかわいがられたわけではなかった。法然の仏教にあった戒律と念仏のうち戒律は必要ないと過激なことを言った。釈迦以来の仏教の厳しい戒律で奥さんを貰ってはいけないとあったが、人間は欲望を捨てられないのでそれ以前の坊さんは、表面上は肉食妻帯をしていなかったが、奥さんのことを隠語で大黒様、お酒のことを般若湯と言ってかくれて奥さんをもらったり、お酒を飲んだりしていた。親鸞は公然と肉食妻帯に踏み切った。これは仏教における一大革命であった。親鸞は、法然と同じで流罪となった。越後での流罪生活ののちは常陸の国で布教をして多くの信徒を得たが、都にもどってきてもほとんど布教活動をしていない。そのかわり「教行信証」という自分の教えを本にした。親鸞は、法然と違って戒を捨て、念仏の思想に徹底した。90歳まで生きたが、生前はほとんど無名で、ひっそりと亡くなった。しかし、女系のひ孫の覚如が本願寺教団を建てた。その子孫の布教の天才の蓮如が室町時代に組織を飛躍的に発展させた。その後東本願寺、西本願寺にわかれるが、これは後で取り上げて少しまとめてみる。親鸞の言行録を弟子の唯円がまとめた「歎異抄」に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」つまり、善人ですら往生する、ましてや悪人が極楽浄土できないはずはないという言葉があるが、これが親鸞の浄土の教え、悪人を救う教えである。悪の自覚が親鸞には強く、完璧すぎる法然があまり人気がないのに対して親鸞がおそらく日本で一番人気のある仏教者なのはそのためであろう。
浄土教にはもう一人踊り念仏の一遍がいる。時宗という宗派を興した。河原町四条の京極にも念仏道場があり、歌舞音曲が影響して南座、祇園などの京都の遊び場ができた。
このように法然の蒔いた念仏の教えの種は、浄土宗、浄土真宗、時宗として育っていき、いろんな影響を日本に与えた。仏教には、平等と悟りという大事な二つの原理があるが、厳しいカースト社会のインドでは平等を説く仏教は根づかなかった。煩悩を越えた生き方ができることが悟りを得るということであるが、悟りを阿弥陀様という極楽浄土の仏様をお頼みすることで他力によって菩提という仏陀の混ざりけのない正しい悟りを得る、これは日本仏教の一つの大きな流れになっている。浄土仏教は、特に日本において発展した仏教なのである。
次に禅について。浄土、日蓮と並び鎌倉時代のもう一つの仏教が禅である。仏教はインドから来たものであるが、禅は中国の特に宋の時代に中国で盛んな道教と結びついて独自に発展した仏教である。中国の仏教の主流は禅であり、日本にその禅が最もよく残っている。禅の教えは、個人が仏になる、自分が仏であり、自分以外に仏はない、寺院も仏像もいらない、仏になるために公安と座禅をするというものである。羅漢は禅の悟りをひらいた自由人であり、羅漢のような個性的な自由人になることが禅の仏教である。公安とは、師匠が弟子に質問をし、それに対してそのときそのときで自分の独創的な答えをだすこと。座禅は、釈迦と同じ姿で瞑想することで釈迦そのものになる、釈迦と同じ人間になるというのが座禅の精神である。本当の精神の自由を求める、それが禅である。有名な寺として、東福寺、臨済宗をひらいた栄西の建仁寺、南禅寺、天龍寺、相国寺がある。こういった寺の位置を知ることで歴史がわかる。京都の東にあるのは鎌倉時代につくられた寺、北にあるのは室町時代につくられた寺である。有名な金閣寺、銀閣寺は相国寺派に属する。禅寺には塔頭がある。本尊に属している寺のことで、庭、襖絵、障壁画など塔頭全体が芸術品である。大徳寺、妙心寺に芸術的にすばらしい塔頭が多い。これら臨済禅のほかに、道元が始めた曹洞禅がある。道元は公家の子供だが、中国へ行って空海のようにたくさんの経典をもってきたお坊さんと違って、「私は裸一貫で帰ってきた」と言って、裸一貫で禅の悟りを中国で得てきたと言った。京都では伝統的な仏教の圧力が強いため福井県で永平寺を建て、禅の中でも特に厳しい修行をしている。臨済禅では、自分が一切の執着を捨てて仏になることを目指す。人間は本当に無である。その無に目覚めたら覚悟ができ勇気が出る。そのため、鎌倉武士たちは臨済禅を愛し、この進行が京都へ移り貴族の間で流行った。曹洞禅はもはやアッパークラスの武士や貴族を信者とすることはできない。しかし、室町時代に農村へ浸透し、曹洞禅は一番檀家が多く、浄土真宗に匹敵するぐらいの力を持っている。
結論として、鎌倉時代には素晴らしい仏教者が出てきた。鎌倉時代には世の中が大きく変わる、そんな時代に人間どう生きたらいいかを真剣に考え、その結果法然、親鸞、日蓮、栄西、道元のような素晴らしい人たちが出てきた。いまもそういう時代である。社会主義体制は崩壊したが、残った資本主義体制も危なくなってきている。人類がどう生きてよいかわからない時代に、このような人が求められる時代が来ている。その意味で、鎌倉時代の仏教の話をするのは現代についての反省としても大切なことである。
以上がまとめだが、自分が自力で仏になるために修行を積むのが禅であり、念仏によって他力で仏様である阿弥陀如来にお願いして浄土へ往生させてもらうのが浄土教であることがよく理解できた。
二村家の宗教は仏教であり、宗派は浄土真宗の真宗大谷派である。二村家の宗派の真宗大谷派の本山である東本願寺について少し調べてみた。
梅原毅の話にも出てくるが、宗祖は親鸞である。浄土真宗なので本尊は阿弥陀如来である。その歴史は、まず東と西に分裂するもっと以前にさかのぼる必要がある。門弟らが親鸞の遺骨を廟堂を建て彫像を安置したことに起源し、親鸞の女系のひ孫の第3代覚如上人が、本願寺の寺号を名乗るようになった。寺院化の流れの中で、御影堂の他に本尊を安置する阿弥陀堂が並存するようになった。東本願寺のホームページの境内案内図をみると隣り合わせとなっていることがわかる。
その後、布教の天才と梅原毅も言っているが、戦国時代に第8代蓮如上人がひろく民衆に教えを広め、本願寺教団を作り上げた。その後、現在の大阪城のあるところである石山に本願寺を移転した。第11代顕如上人の時代に織田信長と前後十数年の持久戦の戦いをつづけた。信長が、最後は正親町天皇を仲裁にたてて和議求めてきたが、この時に開城するか抗戦するかで本願寺内で意見が分かれた。顕如と次男の准如は和解に従おうとしたが、信長のこれまでの残虐非道な殺戮を知っており信長を信用できないと考えた長男の教如は籠城しての徹底抗戦を主張し、対立した。顕如は己に従わない教如を義絶し准如をたてて御真影とともに和歌山の鷺の森別院へ移った。しかし、やはり信長の軍勢は、雑賀騒動を機として浄土真宗撲滅のため追撃した。その時の総軍師が明智光秀であり、大江山にさしかかったところで「敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり」と馬首一転したため、危うく本願寺は救われた。後日事変を知った顕如は教如の義絶を解くも親子の溝は深まる一方となり、第12代宗主を准如にゆずった。これが本願寺派の総本山である西本願寺である。その後、徳川の時代となり、家康は本願寺勢力の分割を謀って不遇であった教如をたてて、地図を見てもわかるようにすぐ東に寺地を寄進して東本願寺を別率させることに成功した。これが東、西本願寺の分裂のいきさつである。
その後、互いにいがみ合い、西が御影堂を南に置けば東は北に、西が御文章と言えば東は御文、西は「なもあみだぶつ」、東は「なむあみだぶつ」、焼香回数が西は1回、東は2回など、いちいち変えていた。現在では真宗教団連合を結成して相互交流を図っているようである。
母方の祖母は真言宗だったそうだが、その祖母と父方の祖母が、大正時代に京都高等女学校、今の京都女子大学の親友で、そのとき西本願寺明如(光尊)門主の二女の九条武子から勉強を教わったらしい。父方の祖母は西本願寺の関係なのに東本願寺の宗派の二村家に結婚してきたとのことで、いいのだろうかと思ったが、あまり気にしていなかったようだ。同じ宗教でも信長や家康の陰謀で分裂し、交流があるにしても現代まで別の宗派であるなど、なんだか人間臭さを感じて面白い。また、「花子とアン」にも出てくる白蓮は、私の実家の筑豊炭鉱の成金と一度は結婚するのだが、白蓮と九条武子は意外にも仲良かったらしく、しかも大正三代美人のうちの二人といわれている。筑豊という田舎でありながら、変なところで関連があって不思議な感じがする。