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皆さんへのメッセージ​

 1.ご挨拶

​ 2.にむ院長の略歴・専門医など

 ​3.にむのひとりごと

1.ご挨拶

ご挨拶
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皆さんへのメッセージ(開院四年目)

2024年4月1日から開院4年目に入ります。あっという間の3年間でした。思いかえせば、いろんなことがありました。個人的には朝から晩まで診察室に座っているので、運動不足と年齢のためか、あちこち痛くなったり、体力がなくなってきていることを痛感しています。開業して10年間は元気に仕事を続けていきたいと思っているので真剣に体調管理をしなくてはと反省しております。仕事の面では、クリニックの運営をよりスムーズにするために、事務員を増やして電話予約、問診打ち込み作業、返信・紹介伝票作成、採血伝票整理、院内採血作業など、これまで事務、看護師がやっていた作業の一部をやってもらうことで、会計業務、看護業務をより効率化して、もっと患者さんを診察できるようにしていきたいと考えています。それに伴い診察室を広くする工事を3月下旬から4月上旬にやって、4月4日にリニューアルいたします。新しい事務員はえちこガーデン内の机で電話対応、予約業務、問診票の打ち込みなどをいたします。小さなクリニックですが、これからもよりよく診療ができるように工夫していきたいと思います。手術に関しては、ようやく常磐病院が日本内分泌外科学会専門医制度関連施設に認定されました。以前私が松村総合病院にいた時に続き認定されました。現在松村総合病院は認定解除となっていますので、常磐病院がいわきでは唯一の関連施設となります。今後さらに条件を満たせば一緒に手術をしている尾崎医師が専門医の試験を受ける事が出来ます。彼が専門医を取得すれば私以外にいわきで日本内分泌外科学会専門医となるため、少なくともその日までは手術に携わっていきたいと思っています。3月下旬に東京医大の甲状腺外科の筒井英光教授とそのグループの先生と初めてお会いし、困難な手術の依頼を改めてお願いしてきました。名実ともに最高の名医の先生であり、快く引き受けてくださって感謝しております。甲状腺の内科に関しては、日本甲状腺学会の専門医ではありませんが、日本内分泌学会の専門医の先生で甲状腺疾患にも明るい先生がいわき内に新たに開業されていてよかったと思います。みゃくみゃくと甲状腺の診察がいわきでできる基盤を作っていくことが今後の私の使命だと思っています。今後1年間、またよろしくお願いいたします。 

2024年4月1日 院長 二村浩史拝

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皆さんへのメッセージ(開院三年目)

みなさんのおかげで開院して2年4か月が経ちました。本当にあっという間でした。無事にやってこれた事を患者さんやスタッフや紹介してくださる先生方、紹介して診てくださる先生方をはじめいろんな方々に心から感謝いたします。ありがとうございます。その間、2,000人ちかくの初診の方が受診されました。およそ8割の方が甲状腺関連です。常磐病院で手術をした甲状腺・副甲状腺疾患の方も70人を超えました。現在月に3人の方の手術をしていますが、最近手術が必要な方が増えてきており、すでに今年の手術予定が埋まってしまっている状況です。これまでぼくがすべて執刀医で手術をしていましたが、いまではぼくとひるちゃんが助手について、常磐病院外科の尾崎医師が執刀で質の高い手術が出来ています。ぼくとひるちゃんが一緒に手術に入らなくても大丈夫な様にさらに指導させていただこうと思っています。ぼくは甲状腺外科(日本内分泌外科学会)の指導医の資格を持っているので、それが今年1年のぼくの使命だと思っています。ピットフォールやリカバリーショットを含めてぼくのノウハウのすべてを伝授しているところです。そして、外科のみならず、甲状腺の内科的な診断と治療のノウハウを、信頼しているある開業医の先生にすべて伝授する予定です。おこがましいようですが、甲状腺の外科、内科の指導をする事が今後のぼくの使命だとかってに思っています。そうすることでいわきのなかで正しい甲状腺疾患の診断治療が完結できると思っています。ここで開業した一番の目的は、まずは甲状腺無医村のいわきの方々が困らない様に甲状腺の外科内科をするということでした。次の目標はいま述べた様に甲状腺の外科と内科の医師を育てる事です。このクリニックには北は相馬や南相馬、南は水戸や日立、北茨城、内陸では郡山や白河、田村からの患者さんが来られています。(一番遠い方は愛知からですが、このかたは昔ぼくが手術した方で、いまだに年に3回来て下さっています。千葉や東京からの患者さんもいますが、大学病院時代に手術をした方です。)いずれもう少し遠方で開業している知人の医師を含めて多くの医師に伝授していけたらと思っています。

いま、ぼくは61歳です。もう少し時間があるので、今後はそれを目標にやっていきたいと思っています。

あとは、とにかく働いていてやりがいがあって楽しいと感じるようなクリニックの雰囲気づくりに努めていきたいと思っています。

そんなわけで、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 

2023年8月13日 院長 二村浩史

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皆さんへのメッセージ(開院二年目)

昨年4月1日にクリニックを開院して、2022年3月31日で1年となります。

その間、世の中では新型コロナウイルス感染、ロシアのウクライナ侵攻、大きな地震など暗いニュースばかりだったように思います。そんななか新しく開院して、1000人を超える方に来ていただき、みなさんが笑顔になって帰っていく姿をみることに唯一の喜びを感じてやってきました。スタッフもどうやったらうまく運営できるのかと日々一緒に考えてくれて、いかによりよくできるのかこの一年間試行錯誤でやって参りました。まだまだ改善できることはあると思いますが、まずは元気に明るく楽しく1年間過ごせたことを、すべての方に感謝申し上げます。

いわきで甲状腺をメインとしたクリニックを開業したことを誇りに思います。

いつまで元気でやれるのか神様しかわかりませんが、これからもスタッフともどもみんなが笑顔で元気に生きていけるように日々過ごしていきたいと思います。

一年間本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

院長 二村浩史拝

皆さんへのメッセージ(開院時)

皆さんこんにちは。院長の二村浩史(にむらひろし)です。このたび、2021年4月にいわき市平上荒川で開院することになりました。先の大震災で原発事故がありましたが、現在いわき市には日本甲状腺学会の専門医は自分しかおりません。

それもあっていわき市で医師をやることが運命づけられているように感じてました。また、今回一緒に開院するスタッフとは、一緒に音楽ボランティアをやったりしてお互いが信頼し合っており、開院前から一緒にやっていきたいと思っていた仲間たちです。そんな素晴らしい仲間と一緒に、いわき市で最高の診療を目指したいと思って開院することにしました。

 

ぼくの思っている最高の診療とは、患者目線で自分が患者だったらこうしてほしいと思うことができるような診療です。自分の専門分野は自信をもってやっていきますが、それ以上の高度な治療であったり、専門外の事はその分野の専門の医師に責任をもって紹介するといったことです。

いわき市には10年前にお誘いを受けてやってきましたが、もともと本当は奄美大島の無医村で医師をやるという夢があったので、あまりいわき市の医師とは深くお付き合いをしてきませんでした。でも、以前の仕事仲間が全国にいて、特に東京には最高の医療を提供してくれる多くの仲間がいます。最近ですが、いわき市内でとても親しくなった医師ができ、今回の開院もその先生からの紹介があってとんとん拍子に決まりました。

ぼくはいつも本当に人に恵まれています。感謝しかありません。

そんなわけで、最高のスタッフと共に、医師として最後までここいわき市でやっていこうと思っております。

 

クリニックの特徴としては、先にも述べましたがいわき市では初めての日本甲状腺学会専門医による甲状腺のクリニックです。さらに、日本消化器内視鏡学会ほか消化器の専門医も兼ねているので、広い視点で診療できると思っております。

クリニックの運営は、できるだけスタッフや皆さんからの貴重なご意見を取り入れながらより良いクリニックにしていけたらいいなと思っています。スタッフ間でも単なるトップダウンではなくて、ティール制を取り入れていきます。またご意見箱を作って、皆さんからご意見をいただき、改善できるところは改善していきたいと思っております。随時ホームページにアップしていけたらと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

最後に、自分について別に詳しく自己紹介で書かせていただきました。興味がある方はどうぞのぞいてやってください。

2.にむ院長の略歴・専門医など

​2-1.略歴

 

院長 二村浩史(にむらひろし) 医学博士

Director Hiroshi Nimura M.D., PhD

 

1962年2月14日 福岡県田川市後藤寺生まれ

1977年 私立明治学園中学校 卒業

1980年 福岡県立小倉高等学校 卒業

1980年 東京慈恵会医科大学医学部 入学

1987年 東京慈恵会医科大学医学部 卒業

1987年 東京慈恵会医科大学 外科学講座(旧第2外科) 入局

~2008年 東京慈恵会医科大学 外科学講座講師・消化管外科診療医長

2008年~2009年 甲状腺専門病院 金地病院 副院長

2010年~2021年 公益財団法人済世会 松村総合病院 外科診療部長

 

​2-2.所属学会など

 

日本医師会

日本外科学会

日本甲状腺学会

日本内分泌外科学会

日本消化器内視鏡学会

日本消化器病学会

 

2-3.専門医・指導医など

 

日本外科学会 専門医

日本甲状腺学会 専門医

日本内分泌外科学会 専門医・指導医

日本消化器内視鏡学会 専門医・指導医

日本消化器病学会 専門医・指導医

日本がん治療認定医機構 認定医・暫定教育医

日本医師会 認定産業医

TNT (total nutritional therapy) course修了

厚生労働省「がん診療に関わる医師に対する緩和ケア研修会

(平成28年度茨城県緩和ケア研修会)」終了

 

2-4.学会評議員

 

日本内分泌外科学会 評議員
日本消化器内視鏡学会 学術評議員

日本消化器内視鏡学会東北支部 評議員

 

開業後に以下を返還いたしました。

日本外科学会 指導医

日本消化器外科学会 専門医・指導医・消化器がん外科治療認定医

日本温泉気候物理医学会 温泉療法医

日本医師会 認定健康スポーツ医

日本スポーツ協会 公認スポーツドクター(ラグビーフットボール)

日本臨床外科学会 評議員

日本臨床外科学会福島県支部 世話人

 

2-5.医学に関する受賞歴・取材など

 

令和元年度公認スポーツ指導者等表彰

福島県体育協会永年表彰 スポーツドクター(ラグビーフットボール)

 

平成19年度手術手技研究会 第35回奨励研究賞

腹腔鏡下赤外線観察による胃癌センチネルノードナビゲーション手術の術式設定に関する研究

 

日経メディカル取材 胃癌治療で広がる赤外線観察(胃癌学会2008)

リンパ節転移の有無を判断し、縮小手術の可能性を探る

medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/int/200510/409788.html

 

The 6th Korea-Japan Joint Symposium on Gastrointestinal Endoscopy Poster Award (2007)

平成18年度内視鏡医学研究振興財団研究助成 早期胃癌における赤外線腹腔鏡システムを用いた腹腔鏡下センチネルノードナビゲーション手術の安全性および有用性に関する研究

平成16年度内視鏡医学研究振興財団研究助成 早期胃癌における赤外線腹腔鏡システムを用いたセンチネルノードナビゲーションの有用性に関する研究

平成16年度~平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(C))胃癌におけるICG局注赤外線腹腔鏡観察によるセンチネルリンパ節同定の研究 (No.16591356)

にむ院長の略歴・専門医など
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にむのひとりごと

3.にむのひとりごと

​ ※過去のひとりごとは、こちらからご覧いただけます。

〇2024年7月15日月曜日海の日祝日

南崎香子先生。ぼくが小学校2年生から4年生まで3年間担任をされていた先生です。先週の金曜日のひるに、南崎さんという方からお電話ですと事務員に言われて、「もしかして?」と思って電話に出ました。南崎先生のお嫁さんからのお電話でした。なぜぼくのクリニックがわかったのかお尋ねしたところ、先生のお孫さんがなにげなく検索をしていたら、ぼくのクリニックのホームページがヒットしたのだそうです。ホームページを読んで、ぼくがいかに先生にお世話になったかを感じて下さったのでしょう。そんな訳で電話をしてくださったようです。先生は現在ご自宅を処分されて、福岡市の施設にいらっしゃるとの事でした。98歳でご健在との事。認知症のため、おそらくぼくのことはわからないだろうな。そのご家族からわざわざ電話をいただいて、本当にうれしかったです。ありがとうございました。ホームページをみてみると、開院時のメッセージのにむ院長自己紹介の中のにむ院長性格セルフ分析の中に、「ぼくは自分で言うのはおこがましいですが、大器晩成型だと思います。小学校くらいまではただのはなたれ小僧でした(応援メッセージに幼なじみのりかちゃんがその頃の事を書いてくれてます。)今の時代ならきっとみんなについていけなかったんじゃないかと思います。後藤寺小学校の時にお世話になった担任の南崎香子先生に、「医者になりたくて医学部に入りました。」と慈恵医大に入った後ご挨拶に伺ったのですが、その後おふくろに「子供はあきらめちゃダメなんですね。」と涙ながらに語っていたそうです。まさかあのぽやんとしたはなたれ小僧が医者になるとは夢にも思っていなかったのでしょう。本当にのんびりした昭和のいい時代に育ったと感じています。」と書いていました。そんなこともあり、今日はぼくの小学校時代の事を書いてみようと思います。今回はたくさんの写真も載せました。よかったらみてやって下さい。

ぼくは福岡県田川市の後藤寺(ごとうじ)という町の写真館の息子として生まれました。実家の事は別の機会に書きます。父の高校の後輩に井上陽水さんがいて、あの「少年時代( https://www.youtube.com/watch?v=dNS4rE2dKJA )」に歌われていた風景と同じ田舎で、この曲を聴くと当時のことを思い出します。田川市立後藤寺小学校に通いました。1年から6年までの通信簿をまだ持っています。1年のときの通信簿を見ると、5段階評価で1学期は体育2、あとは全部3でした。2学期以降は、図画・工作のみ5です。この頃絵を描くのが好きで油絵を習っていて、県で賞をとったりしていたのでそういう影響もあったのでしょう。1年の担任の片岡先生のぼくの評を読むとほんとにぽやーっとして、図画以外はどうしようもない子だったようです。そういえば、よく空想に耽っていたような気がします。そして2年生になって担任が南崎先生にかわりました。優しさと厳しさを兼ね備えていた先生でした。3年生の時の集合写真です。ぼくが9歳なので、先生はこの頃45歳だと思います。凛として美しいですね。当時1学年4クラスだったと思います。懐かしい顔ぶればかりです。ぼくは上から3段目の右から3人目です。まだ眼鏡をかけていません。その2人左横で先生の上にいるのが6年間一緒で、早生まれでできの悪いぼくの面倒をみてくれた進野弥生(旧姓田中)ちゃんです。一番上段の右端が転校してきた生嶋くんです。お父さんは刑事さんでした。その3人隣りが電気屋さんの小島君です。2段目の左から5番目の三つ編みの女の子は当時古賀美幸ちゃんといって幼心に密かに気になっていた女子です。このころの小学校は古い木造でした。お手洗いは古く木製で、男女兼用で、男児の小便は縦に建ったコンクリート板に向かってするものでした。ある時、その板の上を越せるかどうかを友達と競っていて、力を入れて頑張っていたところ、僕のおしっこが塀を超えて反対までとんでいきました。すると、反対側に偶然生嶋君がおしっこをしていて、彼にぼくのおしっこがかかってしまい、泣きながら怒って向かってきました。確か南崎先生が仲裁に入って下さったような気がします。ぼくが悪いので、その夜お袋と菓子折りをもって彼の家に誤りに行った事を懐かしく思い出します。生嶋君、あの時はごめんなさい。彼はその後小倉に転校していったのですが、なんと同じ中学校に通うことになったのです。中学校では同じクラスで仲良しでしたが、彼はまじめでよく勉強して成績も常にトップクラスで、ラ・サール高校に合格して東京大学の理IIに行きました。大学時代はボートのエイトで活躍し、今は住友化学で常務執行役員をしているようです。13年前にぼくが中学校の関東支部同窓会の幹事長をした時の飲み会で中学校卒業以来会いましたが、全く変わっていなかったことにびっくりしました。3人で写った写真の左がその時の彼です。当時50歳とは思えない若さです。小島君には2年前に後藤寺を訪れた時に、彼の実家の電気屋さんを尋ねたところ偶然お店にいて一緒に写真を撮りました。お互いいいおっさんになったなと思いました。小学校の頃、よく空き地で野球をして遊んでいて、ボールが犬の糞についてしまい、彼が面白半分に投げたところ、当時悪ガキだった池永君(確か警察官になったと聞いています)に当たってしまい、怒った池永君が小島君のグローブを犬の糞に投げつけたことがありました。その後彼は一生懸命グローブを洗って乾かしたのですが、匂いが取れずしょげていた事を思い出しました。4年生の時の集合写真も載せました。この年に木造の校舎が鉄筋コンクリートになりました。落成式はよく覚えています。校歌が変わったことも覚えています。ぼくは上から2段目の右端です。このころから眼鏡をかけています。左横が小島君です。その3人左隣りが生嶋君です。弥生ちゃんは一番上の段の左から3人目です。弥生ちゃんは小学校の先生になって、2年前に後藤寺に行った際に後藤寺小学校を案内してくれました。一緒に写真を撮りましたが、校舎や教室は50年以上も当時のままで、タイムスリップしたような感覚になりました。このとき南崎先生からの葉書をみせてくれて、先生に会いたいなと思いましたがご自宅に電話してもつながらないとの事でした。葉書を読むと南崎先生の弥生ちゃんに対する愛情をとても感じます。このとき弥生ちゃんと一緒に食べた小学校前のうなぎの森本の味が忘れられません。関東と違って蒸さずに焼くのでかたいのですが香ばしくて大好きです。4年生の通信簿を見ると、相変わらず図画・工作のみ5です。少し4が増えてきたかなという感じですが、先生の評はなかなか厳しいものですね。トンチンカンって笑っちゃいますね。子供をよく見てるなと感心します。それに2学期の行動の所見は、今読んでも笑ってしまいます。「飼育係の仕事を最初はファイトをもってもくろんだが次々に魚が死ぬので諦めた状態となった。給食中もう少し静かにしよう。」だって。ほんとにどうしようもないガキですね、ぼくは。先生に、隣のクラスにわら半紙をもらってくるよう頼まれたことがありました。当時は今のように白い綺麗な紙ではなく茶色いわら半紙と呼ばれる紙が多かったです。隣のクラスの先生のところへ行ったのですが、わら半紙という言葉が出てこなくて、紙をくださいとしか言えなくて、何の紙ですかと言われてただ紙ですと言ったら、もう一度聞いていらっしゃいと言われて南崎先生のところに戻りました。そのとき先生は、なんてお願いしましたか?とぼくにたずねましたが、わら半紙という言葉が出てこず、再度教えてもらって取りに行った事があります。先生がなんとなく悲しいような困ったような顔をしていた事をふと思い出しました。ささいなことですが、子供心に何か感じたことがあって今でも記憶にあるのですね。おそらくあまり自分に自信がなかったころだと思います。太っていたし出来が悪いしでコンプレックスの方が強かったのだと思います。このころ、先生がクラスから3人選んで、1分間でみんなの前で何でもいいので発表するように言われました。あとでわかったのですが3人には生嶋君も選ばれていました。ぼくは日頃私語ばかりして怒られていたので、きっと反省を促すために言われたと思ってしまい、とても不名誉な事だと勘違いをしてしまいました。1週間の時間があったのですが、ぼくはあやまるつもりでしおらしく黙っている事に決めていた事を覚えています。トップバッターがぼくで、みんなが見つめる中、じっと一言も発しないで終わりました。そのあと生嶋君の発表は、内容はおぼえていませんがとても楽しいもので、やんやの喝采でした。えっ?楽しい話をしてもよかったの?と急に恥ずかしくなったことを覚えています。なぜあのとき南崎先生がぼくに発表するように言ったのか、今では謎のままですが、きっと自信を持たせるためだったのではないかと思います。今ではどれだけ大勢の人がいる前でも緊張しないで話せる自分がいますが、このころのぼくには考えられない事でした。その後5年生、6年生と小柳先生に担任が変わり、姉の影響もあり、また漠然と医者になりたいという気持ちが芽生えていて(そのことはまた別の機会に書きます)、市立の進学校に行きたいと思ってがぜん勉強をしたことを覚えています。そのころから一緒に遊んでいた友達とも疎遠になったような気がします。洋楽のロックに目覚めたのもその頃です。そして、ようやく少し積極的になっていったような気もします。当時は全く自覚がありませんでしたが、まわりにはかなり迷惑をかけていたんだろうと思います。5年の時の集合写真では生嶋君が転校していません。ぼくは上から2段目の右端、弥生ちゃんは一番上の段の左から3人目です。一番上の段の右から2人目が小学校1年からの仲良しだった呉服屋さんの鈴木君です。2年前に小学校卒業以来で会いましたが、相変わらずかっこよかったです。後藤寺にはもう一生行くことは無いだろうと思って弥生ちゃん、小島君、鈴木君に会いましたが、もし万一この先当時の学年の同窓会があるのなら、また後藤寺まで行こうと思います。

小学校を卒業する1973年に発売されて、大好きだったジョン・レノンの「マインド・ゲームス( https://www.youtube.com/watch?v=bVYXWVs0Prc )」のアルティメイト・コレクションが今回発売されます。えのもっちゃんが入れてくれるとの事でとても楽しみです。この曲を聴くとこの頃を思い出します。

最後に前回ディズニーのパレードに出ていた事を書きましたが、その頃の衣装を着た写真があったので載せます。

長い長いひとりごとでした。お付き合いいただきありがとうございました。

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