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にむのひとりごとアーカイブ

〇2024年7月15日月曜日海の日祝日

南崎香子先生。ぼくが小学校2年生から4年生まで3年間担任をされていた先生です。先週の金曜日のひるに、南崎さんという方からお電話ですと事務員に言われて、「もしかして?」と思って電話に出ました。南崎先生のお嫁さんからのお電話でした。なぜぼくのクリニックがわかったのかお尋ねしたところ、先生のお孫さんがなにげなく検索をしていたら、ぼくのクリニックのホームページがヒットしたのだそうです。ホームページを読んで、ぼくがいかに先生にお世話になったかを感じて下さったのでしょう。そんな訳で電話をしてくださったようです。先生は現在ご自宅を処分されて、福岡市の施設にいらっしゃるとの事でした。98歳でご健在との事。認知症のため、おそらくぼくのことはわからないだろうな。そのご家族からわざわざ電話をいただいて、本当にうれしかったです。ありがとうございました。ホームページをみてみると、開院時のメッセージのにむ院長自己紹介の中のにむ院長性格セルフ分析の中に、「ぼくは自分で言うのはおこがましいですが、大器晩成型だと思います。小学校くらいまではただのはなたれ小僧でした(応援メッセージに幼なじみのりかちゃんがその頃の事を書いてくれてます。)今の時代ならきっとみんなについていけなかったんじゃないかと思います。後藤寺小学校の時にお世話になった担任の南崎香子先生に、「医者になりたくて医学部に入りました。」と慈恵医大に入った後ご挨拶に伺ったのですが、その後おふくろに「子供はあきらめちゃダメなんですね。」と涙ながらに語っていたそうです。まさかあのぽやんとしたはなたれ小僧が医者になるとは夢にも思っていなかったのでしょう。本当にのんびりした昭和のいい時代に育ったと感じています。」と書いていました。そんなこともあり、今日はぼくの小学校時代の事を書いてみようと思います。今回はたくさんの写真も載せました。よかったらみてやって下さい。

ぼくは福岡県田川市の後藤寺(ごとうじ)という町の写真館の息子として生まれました。実家の事は別の機会に書きます。父の高校の後輩に井上陽水さんがいて、あの「少年時代( https://www.youtube.com/watch?v=dNS4rE2dKJA )」に歌われていた風景と同じ田舎で、この曲を聴くと当時のことを思い出します。田川市立後藤寺小学校に通いました。1年から6年までの通信簿をまだ持っています。1年のときの通信簿を見ると、5段階評価で1学期は体育2、あとは全部3でした。2学期以降は、図画・工作のみ5です。この頃絵を描くのが好きで油絵を習っていて、県で賞をとったりしていたのでそういう影響もあったのでしょう。1年の担任の片岡先生のぼくの評を読むとほんとにぽやーっとして、図画以外はどうしようもない子だったようです。そういえば、よく空想に耽っていたような気がします。そして2年生になって担任が南崎先生にかわりました。優しさと厳しさを兼ね備えていた先生でした。3年生の時の集合写真です。ぼくが9歳なので、先生はこの頃45歳だと思います。凛として美しいですね。当時1学年4クラスだったと思います。懐かしい顔ぶればかりです。ぼくは上から3段目の右から3人目です。まだ眼鏡をかけていません。その2人左横で先生の上にいるのが6年間一緒で、早生まれでできの悪いぼくの面倒をみてくれた進野弥生(旧姓田中)ちゃんです。一番上段の右端が転校してきた生嶋くんです。お父さんは刑事さんでした。その3人隣りが電気屋さんの小島君です。2段目の左から5番目の三つ編みの女の子は当時古賀美幸ちゃんといって幼心に密かに気になっていた女子です。このころの小学校は古い木造でした。お手洗いは古く木製で、男女兼用で、男児の小便は縦に建ったコンクリート板に向かってするものでした。ある時、その板の上を越せるかどうかを友達と競っていて、力を入れて頑張っていたところ、僕のおしっこが塀を超えて反対までとんでいきました。すると、反対側に偶然生嶋君がおしっこをしていて、彼にぼくのおしっこがかかってしまい、泣きながら怒って向かってきました。確か南崎先生が仲裁に入って下さったような気がします。ぼくが悪いので、その夜お袋と菓子折りをもって彼の家に誤りに行った事を懐かしく思い出します。生嶋君、あの時はごめんなさい。彼はその後小倉に転校していったのですが、なんと同じ中学校に通うことになったのです。中学校では同じクラスで仲良しでしたが、彼はまじめでよく勉強して成績も常にトップクラスで、ラ・サール高校に合格して東京大学の理IIに行きました。大学時代はボートのエイトで活躍し、今は住友化学で常務執行役員をしているようです。13年前にぼくが中学校の関東支部同窓会の幹事長をした時の飲み会で中学校卒業以来会いましたが、全く変わっていなかったことにびっくりしました。3人で写った写真の左がその時の彼です。当時50歳とは思えない若さです。小島君には2年前に後藤寺を訪れた時に、彼の実家の電気屋さんを尋ねたところ偶然お店にいて一緒に写真を撮りました。お互いいいおっさんになったなと思いました。小学校の頃、よく空き地で野球をして遊んでいて、ボールが犬の糞についてしまい、彼が面白半分に投げたところ、当時悪ガキだった池永君(確か警察官になったと聞いています)に当たってしまい、怒った池永君が小島君のグローブを犬の糞に投げつけたことがありました。その後彼は一生懸命グローブを洗って乾かしたのですが、匂いが取れずしょげていた事を思い出しました。4年生の時の集合写真も載せました。この年に木造の校舎が鉄筋コンクリートになりました。落成式はよく覚えています。校歌が変わったことも覚えています。ぼくは上から2段目の右端です。このころから眼鏡をかけています。左横が小島君です。その3人左隣りが生嶋君です。弥生ちゃんは一番上の段の左から3人目です。弥生ちゃんは小学校の先生になって、2年前に後藤寺に行った際に後藤寺小学校を案内してくれました。一緒に写真を撮りましたが、校舎や教室は50年以上も当時のままで、タイムスリップしたような感覚になりました。このとき南崎先生からの葉書をみせてくれて、先生に会いたいなと思いましたがご自宅に電話してもつながらないとの事でした。葉書を読むと南崎先生の弥生ちゃんに対する愛情をとても感じます。このとき弥生ちゃんと一緒に食べた小学校前のうなぎの森本の味が忘れられません。関東と違って蒸さずに焼くのでかたいのですが香ばしくて大好きです。4年生の通信簿を見ると、相変わらず図画・工作のみ5です。少し4が増えてきたかなという感じですが、先生の評はなかなか厳しいものですね。トンチンカンって笑っちゃいますね。子供をよく見てるなと感心します。それに2学期の行動の所見は、今読んでも笑ってしまいます。「飼育係の仕事を最初はファイトをもってもくろんだが次々に魚が死ぬので諦めた状態となった。給食中もう少し静かにしよう。」だって。ほんとにどうしようもないガキですね、ぼくは。先生に、隣のクラスにわら半紙をもらってくるよう頼まれたことがありました。当時は今のように白い綺麗な紙ではなく茶色いわら半紙と呼ばれる紙が多かったです。隣のクラスの先生のところへ行ったのですが、わら半紙という言葉が出てこなくて、紙をくださいとしか言えなくて、何の紙ですかと言われてただ紙ですと言ったら、もう一度聞いていらっしゃいと言われて南崎先生のところに戻りました。そのとき先生は、なんてお願いしましたか?とぼくにたずねましたが、わら半紙という言葉が出てこず、再度教えてもらって取りに行った事があります。先生がなんとなく悲しいような困ったような顔をしていた事をふと思い出しました。ささいなことですが、子供心に何か感じたことがあって今でも記憶にあるのですね。おそらくあまり自分に自信がなかったころだと思います。太っていたし出来が悪いしでコンプレックスの方が強かったのだと思います。このころ、先生がクラスから3人選んで、1分間でみんなの前で何でもいいので発表するように言われました。あとでわかったのですが3人には生嶋君も選ばれていました。ぼくは日頃私語ばかりして怒られていたので、きっと反省を促すために言われたと思ってしまい、とても不名誉な事だと勘違いをしてしまいました。1週間の時間があったのですが、ぼくはあやまるつもりでしおらしく黙っている事に決めていた事を覚えています。トップバッターがぼくで、みんなが見つめる中、じっと一言も発しないで終わりました。そのあと生嶋君の発表は、内容はおぼえていませんがとても楽しいもので、やんやの喝采でした。えっ?楽しい話をしてもよかったの?と急に恥ずかしくなったことを覚えています。なぜあのとき南崎先生がぼくに発表するように言ったのか、今では謎のままですが、きっと自信を持たせるためだったのではないかと思います。今ではどれだけ大勢の人がいる前でも緊張しないで話せる自分がいますが、このころのぼくには考えられない事でした。その後5年生、6年生と小柳先生に担任が変わり、姉の影響もあり、また漠然と医者になりたいという気持ちが芽生えていて(そのことはまた別の機会に書きます)、市立の進学校に行きたいと思ってがぜん勉強をしたことを覚えています。そのころから一緒に遊んでいた友達とも疎遠になったような気がします。洋楽のロックに目覚めたのもその頃です。そして、ようやく少し積極的になっていったような気もします。当時は全く自覚がありませんでしたが、まわりにはかなり迷惑をかけていたんだろうと思います。5年の時の集合写真では生嶋君が転校していません。ぼくは上から2段目の右端、弥生ちゃんは一番上の段の左から3人目です。一番上の段の右から2人目が小学校1年からの仲良しだった呉服屋さんの鈴木君です。2年前に小学校卒業以来で会いましたが、相変わらずかっこよかったです。後藤寺にはもう一生行くことは無いだろうと思って弥生ちゃん、小島君、鈴木君に会いましたが、もし万一この先当時の学年の同窓会があるのなら、また後藤寺まで行こうと思います。

小学校を卒業する1973年に発売されて、大好きだったジョン・レノンの「マインド・ゲームス( https://www.youtube.com/watch?v=bVYXWVs0Prc )」のアルティメイト・コレクションが今回発売されます。えのもっちゃんが入れてくれるとの事でとても楽しみです。この曲を聴くとこの頃を思い出します。

最後に前回ディズニーのパレードに出ていた事を書きましたが、その頃の衣装を着た写真があったので載せます。

長い長いひとりごとでした。お付き合いいただきありがとうございました。

〇2024年7月7日日曜日七夕

今日は七夕ですね。快晴です。しかし、暑いですね。

数日前に、以前の飲み友達の原ちゃんが、ついに109日目に徒歩で日本縦断したそうです。すごいことです。尊敬します。いわきに立ち寄ったのが63日目でした。勇気がもらえるので是非彼のブログをみてほしいです。Amebaブログのアメーバ検索の一般ブログで「還暦徒歩ダー」で検索すると出てきます。達成の後、メールをくれて、今度東京で飲もうという約束をしました。

先日べにまるで偶然牛すじを見つけたので、しこたま買い込んでしまい、息子に教わった牛すじトマト煮を作り、その後牛すじおでんを作り、一昨日は最後の牛すじで牛すじカレーを作りました。カレー味の牛すじ煮込みみたいな感じになりましたが、美味しかったです。家にあるあらゆる香辛料を入れて、チョコ、コーヒー、牛乳、ヨーグルトも入れました。具材は牛すじ以外は合い挽きの挽肉、カレー用牛肉ブロック、タマネギ、にんじん、セロリです。セロリは葉っぱも全部入れました。昨日お裾分けして、残りを全部食べました。今朝はご飯に味噌と梅干しのみです。味噌は先日常磐病院に手術後の回診に行った帰りに、行きつけの上々屋さんに寄ったときに、マスターに自家製のお味噌を少しいただいてきたものです。今まで食べた味噌の中で一番美味しかったです。キュウリやご飯でいただくと最高です。マスターが、ぼそっと「見えないところに全力でこだわる」と言っていた言葉が生き様として実にかっこいいなと感じました。何でも美味しいのは、裏ではこういうこだわりがあるからなんだと改めて気づきました。日々の努力や好奇心を忘れてはいけませんね。肝に銘じます。

昨日たまたまTVをつけたらNHKで、新プロジェクトXで黒柳徹子の幼少時のトットちゃんの先生ということでトモヱ学園の園長先生の特集がやっていました。とてもいい番組でした。今の自分に置き換えて反省することが多く、今後に生かしたいと思いました。人を叱ったり批判するのではなく、信じて見守る姿勢、その根底にはすべての人は本当はいい人なんだという気持ちを持つことが大切だと感じました。しかし現実社会では、悪の方向に向かう人もいます。純粋な子供のときの教育がいかに大切かということを感じさせられる番組でした。おてんばで周りに迷惑ばかりかけるというので普通の小学校にいれなくなった黒柳徹子に、「本当はいい子なんだよ」と声をかけたそうです。それが今の彼女を導いていると言っていました。また現在アメリカで物理で素晴らしい発見をした同じ学園の仲間がいて、彼は運動音痴で引っ込み思案でなにもできなかったそうですが、先生が「君にしかできないことを探すことが大切だよ」と勇気づけ、それから実験することに興味を持ったのだそうです。黒柳徹子が、子供に接するときその一言がその子の人生を左右すると思って接してほしいと話していました。いい人に巡り会える人、そうではない人、それによってその後の人生がかわるのだと思います。

振り返って、ぼくも大学時代の一番の恩師であった病理学の教授の故石川栄世先生に、田舎から出てきたばかりの18歳のぼくに、「きみのような人が、慈恵医大の求めていた人であり、そのままの姿勢でいろんな勉強をしなさい。心の豊かないい医者になりなさい。」と言ってくださったことを思い出します。当時、ぼくは東京出身のスマートな同級生とは違って、田舎者まるだしで無邪気にいたずらばかりしていました。勉強もしないでラグビーと友達と飲んで語りあってという日々に明け暮れていました。おかげで1年留年しましたが、それでも先生は、君は素晴らしいと言い続けてくれました。凄く勇気をいただけましたし、ああ自分はこのままでいいんだと思いました。つらいことがあったときは、「人にだまされてもだます人間になってはいけない」と言ってくださったり、学生のときのぼくの宴会芸が大好きで、偉い人がいる前でも「にも、ペンギンさんやりなさい」とよく言われたものです。カリフォルニア生まれの先生は、ぼくのことを「にも」と呼んでいました。医師になるにあたり、なによりも人間形成を重視していて、「勉強は医者になったら一生するものだから、君のように学生時代は大い運動部に入って運動をして、いい仲間といい学生時代を過ごしなさい」とおっしゃっていたことをよく覚えています。自分も医者になって、後輩や学生を指導する立場になってからもこの姿勢は全く変わらず、おかげで素晴らしい後輩たちに恵まれました。いまでもその気持ちや姿勢はかわっていません。

しかし、石川先生に出会うには慈恵医大に入らなければ出会えなかったことを考えると、やはり小倉高校での3年間がいかにぼくの人生を導いてくれたのかと感じます。特にぼくの中では3年7組は凄かった。担任の野口悟先生も同級生たちもみんな凄かったです。前むきで、ばかなことをしても一切批判せず逆にみんなで一致団結して、とんでもないパワーのあるクラスになったと思います。先生も20代でまだ若くて、厳しかったけれど友達のような先生でした。今でもよく電話したり、九州に行った際にはお会いしたりしています。バンカラで泥臭い公立高校でしたが、ぼくには水を得た魚のような高校でした。そのおかげで慈恵医大に合格できたと言っても過言ではありません。その小倉高校にはいれたのも、明治学園中学校というカトリック系の進学校に受験してはいれたからで、感謝はしていますが、やはり、ぼくの気風には合わなかった気がします。高校受験でラ・サールや久留米附設という私立の進学校に落ちたことが今思えば好かったと思います。そのおかげで小倉高校に行けましたので。現在一番の親友になったよっちゃんも小倉高校を卒業していなければ会うことはなかったわけで、人生は偶然と必然で成り立っているのだなと思います。人生は本当にわかりませんね。しかし自分を変えていくのは自分一人の力ではなく、応援してくれる家族や仲間や恩師など人との出会いだと改めて感じました。いまのクリニックの仲間もそうですね。本当に感謝しています。開業してからいわきにこもってばかりであまりいろんな人に出会っていない気がします。元々好奇心旺盛なので、土日など時間をみつけていろんな人に出会い、ぼくもその人も成長できれば幸せだなと思います。

明日はクリニックで七夕イベントをします。いつもはバックミュージックにゴンチチを流していますが、明日はなんとなくこの時期にぼくが聴きたい音楽をわがままにセレクトして流したいと思います。久しぶりに昔よく聴いていたブラジル音楽を編集していて、サンバをやっている頃を思い出しました。1995年から浅草の仲見世バルバロスで約20年くらいスルドという大太鼓をたたかせてもらいました。リーダー(プレジデンチといいます)の故髙橋重雄さんのことが大好きでずっと大学病院勤務時代サンバをしていました。下町生まれのちゃきちゃきの江戸っ子気質で、先の石川先生や野口先生と同じくらい尊敬していました。YouTubeで当時の浅草サンバカーニバルでぼくが映っていたものがあったのでアップします。2007年のときのテーマが「音楽( https://www.youtube.com/watch?v=BVSVaNAVvW0 )」のときのもので、練習風景の右から2人目で斜めにシールを貼ったスルドをたたいているのがぼくです。このころはスルドの中でテルセイラという3番目のスルドをたたいていて、リズムは「ウッ ウドウッ ウドンドウッ ウドンドウドンドウドンドウドンドウ」という2拍子の間を埋めるリズムを刻んでいます。ウは左手、ドは右手です。あくまでイメージで書いているので何のこっちゃですよね。リーダーがこのころ病気で、痩せ細っていて、当時のことを思い出してしまいました。映像の浅草サンバカーニバルでは、先頭のコミサン・ジ・フレンチというダンサー集団の中のどこかに現在クリニックのホームページ担当のようじがいます。お互い体が細い頃でしたね。ぼくは27分15秒くらいに映っています。楽しそうにスルドをたたいています。17年前だから、ぼくは45歳くらいかな。みんな元気かなあ。もう一つ2006年のテーマが「ゲーム( https://www.youtube.com/watch?v=nnCVHgeWnSM&t=1s )」のときのものです。この年のパレードは今でもよく覚えていて、スルド隊も仲がよくてすごくまとまっていました。 ぼくの右隣の仲間を含めてスルド隊の2人が病気で鬼籍に入られています。改めて合掌します。ぼくは26分50秒くらいにちらっと映っています。元気にスルドをドカドカとたたいています。このころプロのドラマーの吉田豊さんにかわいがっていただいて、1999年から5年間ほどディズニーランドのイベントでもスルドをたたかせていただきました。1999年は開園15周年記念で、2日間大学病院を休んで、サンバでゲストをおもてなししました。ぼくは映っておりませんでしたが、そのときの映像がありました( https://www.youtube.com/watch?v=dz9Eizl4wNA )。8分30秒くらいにサンバのリズムが響いています。この年はカーニバルがテーマで、それでサンバ風にしたんじゃないかと思います。その年のカウントダウンパレードではミニーちゃんの山車の下段でスルドをたたかせてもらいました。映像がありました。顔ははっきりしませんが6分30秒くらいでスルドをたたいているのがぼくです( https://www.youtube.com/watch?v=hmuf0txYnwA )。この映像では7分45秒くらいにぼくの顔がわかります( https://www.youtube.com/watch?v=1afHfOMnijM )。楽しいいい経験をさせていただきました。ありがとうございました。いろんなつながりで、徳武さんのDr.Kプロジェクトのドラマーの三浦晃嗣さん( https://www.youtube.com/watch?v=ygRTwb4U8Hw )と出会って、一緒にサンバをやらせていただいたこともありました。ビシッとしたドラムをたたかれます。大好きなドラマーです。昔「ショーグン」でドラムをたたいていた方です。

いわきの松村総合病院に勤めるようになって、なかなか東京に戻れなくてバルバロスをやめました。その後バルバロスの仲間に手伝ってもらって「アカデミアサンバいわきベレーザ」を立ち上げて、開業するまでリーダー(プレジデンチ)をしていました。サンシャインマラソンでも応援ボランティアをしました。FMいわきに呼ばれてお話をしたときの音源がありました( https://www.youtube.com/watch?v=BzWVlQQnCY4 )。ひるちゃんは当時スルドと会計をしていました。一緒にFMいわきにいきました。小林克也さんにお願いして司会をやっていただいて、アリオスで何度か「いわきサンバカーニバル」もやりました。テレビ取材もありました( https://www.youtube.com/watch?v=L42aqkREM5M )。バルバロスだけではなく、ほかのチームの方にも手伝っていただいて盛大にやったことを思い出します。

ブラジルの大人気サンババンドで「モノブロコ(https://www.youtube.com/watch?v=DMa7qxpzH6o )」というチームがいます。彼らがアリオスに来たときには、ステージで一緒にスルドをたたかせていただきました。打ち上げではモノブロコのジレトールとチームTシャツ交換をして、サインしていただきました。そのときに、池袋でパレードやるから一緒にやらないかと声をかけていただき、サンシャイン通りでのパレードにいきなり参加させてもらいました。ほかの方たちは練習したそうですが、ぼくはいきなりの参加で直前の音合わせだけでしたがなんとなくリズムに合わせて楽しくたたいたのを覚えています。白いTシャツで赤いストラップでたたいています( https://www.youtube.com/watch?v=AjvhiBz4G4c )。2分30秒くらいに映っています。池袋でのパレードは短時間でしたがこんな感じでした( https://www.youtube.com/watch?v=AFA8r_Ao29U&t=391s )。直前のリズムの練習風景に背中のぼくが映っています。青いベレーザTシャツ、緑の半ズボン、頭に白いタオルを巻いて赤いストラップでスルドをたたいています( https://www.youtube.com/watch?v=WPzhPvZiCPM )。いまはベレーザをやめて施設ボランティアのみの「いわきサンバっぽい音楽隊POI」をのんびりとやっていますが、コロナの影響もあり、このところやっておりません。そろそろまたやりたいものです。 

今、青森の友達のイベンターの斎藤さんから電話があり、明日ねぶたのうちわとか浴衣とかを送ってくれるとのことです。明日がクリニックの七夕でしたが、一歩間に合いませんでした。8月にも七夕イベントするのでその時に活用させていただこうと思います。ありがとうございます。

今日、外はめちゃくちゃ暑いみたいなので、一歩も出ないことにしました。何かあるもので食事をします。ジムは明日の朝行ってきます。

ではみなさん、熱中症に気をつけてね。

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